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孫として祖父の足跡を残す

高齢の両親を持つ私もそれなりの歳になり、コロナ禍で自宅にいる事が多い私自身が南米に興味を持つきっかけとなった祖父の足跡を少しでも知ろうと、色々と調べている所です。私が知っている所では第二次世界大戦前に若くしてブラジル・サンパウロの日本総領事館に赴任・勤務、その後も海外勤務が続き在インド日本大使館副領事、ポルトガルや東ティモールにも赴任した事、外務省退職時には中南米局に在籍していた事は把握していました。祖父母は既に他界しており、母は祖父の在職時まだ幼子だった為、祖父の足跡を全く知りません。
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そんな中、国立公文書館に保存されている公文書が先日公開され、祖父が在職中に叙勲を受けていた事を初めて知りました。職位が拓務省通訳官とあります。拓務省とは戦前に存在した機関で、祖父が外務省から転籍した拓務省で在籍したのは南米課(南米への移民政策を担った局)のポルトガル語通訳官だったようです。祖父はサンパウロ総領事館勤務を経て、後に拓務省発行「ブラジル共和国民法」編纂に携わっています。この叙勲に関する公文書の存在はそれまで全く知りませんでしたので、一定の期間を経て公開されたのでしょう。
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そして更に先日、1938年(昭和13年)3月19日サンパウロ・聖州新聞社発行の「聖州新報」がネット上で公開され、祖父が在サンパウロ日本総領事館に再着任した記事が掲載されています。一度ならず二度もブラジルに赴任した事も今回初めて知りました。最初の赴任時は神戸から「らぷらた丸」で40数日かけてリオに到着、その後サンパウロに着任しましたが、二度目は「りおでじゃねろ丸」だったようです。
更には1931年1月1日発行の「南米新報」には新年の挨拶として在サンパウロ日本総領事館一同の名が列記され、その中に祖父の名もありました。
祖父に一番近いのが従兄弟で、農林水産省時代には二度OECD日本政府代表部に派遣され、省内で10人(多分)が選抜される国際交渉官としても働いて海外を飛び回っていました。

両親や叔父・叔母はいずれも高齢であり、かつて祖父がいた南米大陸に住んでいる孫である私が戦前・戦中・戦後という激動の時代に外交官として仕事をした祖父の足跡を少しでも親族に伝え、後に残すつもりでこれからも公文書や公表された記事などを探し求めて行くつもりです。

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